物語を消費する時代に、まだ心が動く瞬間がある

 

最近、何をを観ても心が動くことが少なくなったように思う。

面白いのに、感動できない。

泣くシーンで泣けない。

誰かが死んでも、「はい次」ってページをめくるみたいに流してしまう。

それはたぶん、物語を“味わう”より、“消費する”ようになったからだ。

■ ストリーミングの時代、“次へ”の誘惑が強すぎる

ワンクリックで次の話、次の作品。

エンディングを飛ばして、次の物語へ。

便利だけど、それは「心が追いつく暇もなく流される」ことでもある。

昔は、録画したアニメを何度も見返した。

1週間の待ち時間があって、その間に余韻を噛みしめた。

「次の放送が楽しみだ」って感情が、作品への“信頼”だった。

でも今は、“待つこと”がなくなった。

物語はすぐに終わる。

そして終わった瞬間、アルゴリズムが次の物語をすすめてくる。

心が休む間もなく、次の刺激を求める。

■ 「感動した気になる」ことが上手くなった

SNSを開けば、誰かの「泣いた」「尊い」「神回だった」が流れてくる。

それを見て、自分も同じように反応する。

いいねを押す。

共感の共有。

でも、それは「感動を再現しているだけ」なのかもしれない。

誰かが泣いたと言うから泣いた気になって、

誰かが名作と言うから好きになった気になる。

■ 本当に心が動くときって、言葉にならないことが多いような気がする

最近、たまに心が動く瞬間がある。

それは大抵、誰も話題にしてないような小さな場面だ。

『電脳コイル』の空き地の風の音。

『Vivy』の、歌う前の一瞬の沈黙。

『ぼっち・ざ・ろっく!』の、演奏が終わったあとに流れる静けさ。

ああいう間の中に、言葉にできないものがある。

SNSで語るには小さすぎて、配信のおすすめに載るには地味すぎる。

でも、そういうシーンにだけ、

「生きてる」って感覚が残ってる。

■ 物語は、共感を探す場所になった

今の時代、“共感”が評価軸になりすぎている。

「わかる」「そうだよね」「いい話だった」

でも、心が動くときって、もっとズレてる。

「わからないけど、なぜか涙が出た」

「意味は説明できないけど、心がざわついた」

その説明不能な感情を大事にしたいと思った。

そして、物語にまだ価値があるとしたら、

それは「理解できないもの」を残してくれること。

簡単に整理できないものを、胸に置いていくこと。

■ 結論:心が動く瞬間は、まだ間の中にある

作品のテンポが速くなっても、SNSが反応を求めても、

心が動く瞬間は、いつも静かな間の中にある。

キャラが笑う前の沈黙、風の音、光の揺れ、誰も言葉を交わさない数秒間。

それをちゃんと感じ取れるうちは、まだ俺はアニメを楽しめる気がした。

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